• 水俣病略年表

    詳細年表は相思社のウェブサイトをご覧ください

    1932年 チッソ水俣工場、アセトアルデヒド製造を開始。水銀を含む廃水を海に流し始める

    1942年 水俣市月浦で水俣病患者が発生(のちに熊本大学の調査で明らかに)

    1956年 チッソ附属病院、原因不明の疾患多発と水俣保健所に報告(水俣病の公式確認

    原因究明期 ~ 空白期

    1957年 水俣病患者家庭互助会結成

    1958年 チッソ水俣工場、アセトアルデヒド廃水の経路を八幡プールに変更し水俣川河口に排水

    1959年 不知火海沿岸の漁民が操業停止を求めて水俣工場に乱入し、警官隊と衝突

        チッソ社内研究班、工場排水を与えた猫400号の発症を確認

         患者家庭互助会、チッソと見舞金契約締結

    1961年  原田正純医師、胎児性水俣病を発見

    1962年 熊本大学の入鹿山教授、チッソ水俣工場のスラッジから有機水銀を検出

         チッソ水俣工場で翌1月まで労働争議(安定賃金闘争)

    1965年 新潟水俣病の公式確認

    1968年 チッソ水俣工場、水銀を用いたアセトアルデヒド製造を停止

         政府、水俣病をチッソによる公害病と見解発表(公害認定)

    患者運動の盛り上がり

    1968年 水俣病対策市民会議、結成

    1969年 水俣病第一次訴訟提訴

    1972年 水俣病患者ら、ストックホルムで行われた国連人間環境会議で訴え

    1973年 水俣病第一次訴訟判決。原告勝訴、補償協定書の締結

    1974年 熊本県、水俣湾に仕切網設置

    1977年 環境庁、新認定基準示す

         水俣湾公害防止事業(埋立工事)開始

    1978年 熊本県、赤字に転落したチッソに対して県債を発行

    1980年 申請協など未認定患者団体、公的検診拒否運動を開始

    1982年 関西に移住した水俣病患者が関西訴訟を提起

    2度の「最終解決」

    1990年 水俣湾公害防止事業(埋立工事)終了

         環境創造みなまた推進事業が開始

    1995年 連立与党、未認定患者救済の解決策を決定 (1度目の最終解決)

    1996年 大部分の未認定患者がチッソと和解

         本願の会、水俣湾埋立地に石像の安置を始める

    1997年  水俣湾の仕切網撤去、県知事が水俣湾の安全宣言

    2000年 政府、国費投入によるチッソ金融支援策を決定

    2004年 関西訴訟最高裁判決、水俣病における国・県の責任を初めて認める

    2009年 水俣病特措法、交付(特別措置法・2度目の最終解決

    2011年  チッソ、同社の事業を引き継ぐ新事業会社「JNC」を設立